昭和40年02月08日 朝の御理解
桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。そんな言葉があります。桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿。どっちも馬鹿。桜と云うのは、あれは、枝を摘んだり切ったりしては花が咲かない。【 】桜を一枝切ろうとか折ろうとかと云う馬鹿がある。梅こそ切らなければ、次の年の梅は見られないという。花は。その梅を切らんと、梅切らぬ馬鹿。
昨日、朝の御祈念の後に、久留米の田村さんがああして毎日お参りされます。2、3日前お参りをして見えた時にお届があってたんです。「大変、その条件の良いお話しがあるんですね。昔、貴方がなさっておった仕事。しかも、大阪へ行ってもらう。旅費であろうが一切の経費はこちら持ち。慣れた仕事ではある。あんたでなきゃ出来ない。条件は、こうこうだと。
そして、よし、向こうが成功する、成功しないなんかは問題ではないと、一役買ってくれないか。」と。現在の田村さんが、逆境にあるのを知っておる、友達だもんだそうですから、同情も半分手伝って、そう云う事を言うて来て下さった。親切な、昔の友達がある。もう一辺にのり気になってから、ほんなら、私が、引き受けようと、言いたかっただけれども、まぁまずまず、御神意を頂いてからと、もう神様はすぐ、お許しを下さるもんだとこう思った。
ところが、やめといたがよかろうという事であった。けどもどんなに考えても、現在の商売不如意な時にです、こう云う良い話しがあるだろうかとこう思う。もう一辺御神意を伺うてみようという気なのですね。 で、昨日、そのお伺いなさる。「それはね、是非ともどうでもと、あんたが言やぁ、そう私もお願いさして頂くけどもね、神様の御神意は何処にあるかと云う事を一つ思うてみにゃいけんよ田村さん。」と、私が言う。
貴方は、どうも私と同じで、どっちかと云うと、パッと、その華やかな性格であり、云うなら、まぁ気障(きざ)な所がある。たとえば、【 】でも、ある人が、行ってビックリした。事務所に5万円もするシャンデリアが付けてあったと。集金に行って、行った人が、あまり調度品が素晴らしいのに、金を払わんから、あれを見ただけで、取らんにゃおられんという気がしたと云うて、私に話した人があるんです。
その豪華な、その雰囲気とかですね、豪華好みであると云う事が、決して悪い事ではない。私でも、そう云うおかげ頂きたいです。 椛目の場合なんか、例えば、月次祭にですよ、一級酒、特級酒が、何十本ちゅうて、あんなお供えが有るって云うて、あげえなおかげ頂いてち、悪く云う者はおりゃしません。誰でも、実を云うたら頂きたいのです。ね、なら、私が、豪華好みだから、神様はああ云う豪華なおかげを下さるかと云うと、そう云う訳ではないのです。
もう、やっても大丈夫と思われるから、下さるのです。そうでしょうが。 けれども田村さん、今の貴方はね桜切るより、梅を切っていかなきゃならんのだと。桜の花のおかげよりも、今は、田村に「梅の花の信心をさせておきたいと云うのが、神様の御神意ばい。」と、だからそれがようと腹に分かってから、おかげ頂くなら、又改めて、大阪行きの事、お願いしようというて話した事ですけれどもね。皆さん、ここの所を一つ、おかげ頂かにゃいけませんよ。
それにはどう云うような場合でも、動揺しない、平生心が頂けておらなければならない。昨日の夕方、突然、長男が帰って参りましてから、お許しを頂いて帰って来た。今日は、青年部会だから、まあ、それのおかげ頂きたいと云う訳なんでしょう。 夕べも、丁度、青年の方達ばかりが、5、6人集まっておりましたから、12時ぐらい迄、色々信心の話しをさせて頂く中にです、又、ここで、私、お取次させて頂く事の中にです、色々おかげを頂いておる訳なんですね。
久富繁雄さんと話してるんです。この頃、朝の御祈念を、頂き終わりますと、走って駆け足で鎮西橋(ちんせいばし)の所まで出ます。ああ土井のおっちゃま達は、ここば通って、もう帰りなすったあとじゃろうかと思うて、鎮西橋の所まで参りましてから、椛目帰りの人達が、ここを皆通って行きよる。そして、椛目の方を拝ましてもらう。何と云うても「椛目は聖地、そんな感じがするですね、おっちゃま。」と云うてから話してるんです。と、繁雄さんが言うておられます。
「そうですもんね、私共、毎日毎日こうやって通わせて頂きますけれども、私共の畑がもう、この島浦の川を一つ越えると、すぐそこにある。あそこへ出て参りますとですね、毎日通うてきよる椛目がです、この一つ川の向こうへ椛目があると思うただけで、おかげを頂く。」と云う事を話しておられます。ね、この川を一つ越えりゃ、そこは、もう椛目だと思うただけでおかげ頂きます。
「勝彦ちゃん、貴方が鎮西橋の、橋の袂から椛目を拝んで、はぁ、やっぱり椛目は、聖地だと感じられる。それと通じる。」と云う意味の事を話しておられる。私、それを聞きながら、有難いなぁと私は思うた。色々お話しをしております中に、久留米の地区、久留米の親教会を中心にして、青年教師会と云うのがございます。同期である、あちらのまさきさんも、入っとられるし、1年先輩の、星野の池上先生も入っておられる。そして、櫛原教会に、交替で御用奉仕においでられる。青年会会合などにも行かれる。
ところが、その親先生が、故意にか人間心を使うておられるのか知らんけれども、「僕は、その会に入らしてもろうていない。」と云う訳なんです。私はそれを聞かせて頂いて、有難いなぁと、こう思うのです。それは、ちょっと寂しい様にはあるけれども、御神意なのだから。ね。いうなら、私の祈りの中にあって、それがあるのだから、そう私が、思わして頂いたら、御心眼にです、その間、頂きますのが、『椿の花が、ハラハラと散る所を頂きました。』
ははぁ、花が散ると云う事は、寂しい事なんだけれども、これは次の、いわば、かってしと云う実が実る前提だと頂く。信心さして頂く者は、ここが大事と思うですね。寂しけりゃ寂しいとおかげを落とし。ね。賑やか花が咲きゃ、賑やかに花が咲いたで、もう、有頂天になっておかげを落とし、どちらにしたっておかげを落とすと云うような、タイプの人とですたい。
寂しいはずの所に、寂しいけれども有難いと云うおかげを頂いておる。賑やかなおかげを頂いておるけれども、これによって、調子にのるような事があっちゃぁならんと云うて、それを又、おかげの基にしてゆく人がある。桜切る馬鹿。梅切らぬ馬鹿である。 次に申しております。「僕、この頃、自分の慢心じゃなかろうかと思うけれども、御神前に出らして頂くと、こんなに大きな愛と云う字を頂く感じがする。」と、神愛の愛である。もう、それがどうにもできん。
もう、こう、体ごとですね、このように感じる、そう云う物を感じる。愛と云う字を、ね。親は、子供の事を思わん親はありゃしません。親の愛、親の愛だけではない。いわば、神愛である。有難いなぁ、おかげを頂きよると。その実感があるからこそ、修行が出来るのだ。又、ここで夕べの御祈念の後に、お届けをしております。先日、こう云うそのお夢を頂いた。『川に入って、沢山の魚を捕っておる。
ところが、尾籠(びろう)な話しだけれども、僕か自身で、その川の中に大便をしておる。それが自分にまつどつき、それが魚にまつどついてですたい、せっかく頂いておる、その魚が、その汚い物に汚されておると云うようなお夢である。』それも、おかげぞと、そう云う、こりゃもう、長男の、夕べ参りましてからの、話し合いましたり、聞きましたり、お届けさせて頂きました事柄なんです。そう云う中からです、一つお互いの信心を一つ見てみなければいけないと思うですね。
椛目に対する一つの憧念心とでも申しましょうか、まず大事です。所謂ここの前を素通りしてから、表から頭だけ下げて行くと云う人がある。とてもとてもそんな事じゃぁね、おかげにゃならん。それは、割り切った考え方をすりゃ、朝参っとるのだから、又どうせ、晩参らんならんとだから。けれどもその辺に、私はおかげを頂くこつ合いがあるんじゃないかと思うですね。こつ合いと云うか、本当、神様と絶えず交流しておると云うそれが。所謂うぶな心が無くなりますと、そんな事になります。
うぶな心が、いつも心の中に有るならばです、丘を一つ越えれば、椛目だと。こう繁雄さんが、実感される。そう云うような物が絶えず、こんなかに頂かれると、私思うです。それです。おかげ頂くのはね、私共がどう云う華やかなおかげを頂きましてもです、それで調子にのらんですむ。椛目に帰ってくれば、途端に、若先生、善導寺に帰れば、もう途端に一修行生、ね。
その一修行生の中にあって、只今申しますようにです、考えれば理不尽なような立場にたってから、修行させて頂いておる。その事も有難いなら、ね、ここで途端に、若先生になったと、こう云われたり、扱かわれたりすると云う事の中にもです、ね、おかげを落としてはならない。どちらにしても、おかげを頂く方にしていかなければならない。お互いの信心がです。段々、おかげ頂かしてもろうて、椛目通いさして頂くうちに、やはりお徳を頂くこつ合いも、おかげを頂くこつ合いも沢山、川に入って魚を捕る。
その事は体得したけれども、まだ、自分自身の中にある汚いもの、その、自分自身の中にある。その汚い物のために、おかげが汚れ、お徳を汚しておると云うような自分である事に気付かせてもらって、はぁ、これが出切ってしまった時、ね、そのこつを覚えた、そんな人がほとんどではなかろうかと思うんです。椛目では。田村さんのそれじゃぁないですけども、ね、
神様は桜の花よりも、梅の花のおかげをやりたいと云う願い、おかげを渡したい、しかもその渡した、そのおかげで怪我をするような事があってはならなんと、もう渡しても大丈夫と云うようなおかげを頂かして下さる為に、しきりに魚を捕らして頂くこつ合い、確かに頂きよる。けれどもそれが実際の用にはたたないと、それはまだ自分の中にある汚い物が、どんどん所謂改まりに改まり、磨きに磨かして頂いておる時であるからと云ったような、ま状態のお互い時じゃなかじゃろうかと思うです。
ですから、そこに気付かなかったら、いつまでたっても私、なんがり、なんがり、汚い物が出たんじゃいけんとこう思う。そんな事を、私、感じながら、夕べ休ませて頂いたからでしょう、お夢を頂いてるんです。私、あんなお夢、初めて頂いたんです。『屋根の上にですね、どうして、こんな大きな蛇がおって、気が付かじゃかったじゃろうかと、本当に、大蛇なんですよ。
それが、もう実に見事な、錦蛇のような大きな、その大蛇なんです。こんなめぐりがあったとは、ほんに気が付かなかったと、横に、勝彦が立っているんです。そして、その、ゆうておる事がです、「今日は、不動様のお縁日だから、殺す事はすまい。」と言っておるんです。不動様のご縁日だから、ね、不動様のご縁日だから、殺す事はすまい。これを、生け捕りにして、見せ物にしようち。』ね、
お互い、現在おかげを頂かない間にです、自分のめぐりを出したら、「あらあの人は、あげなめぐりをもっちゃるじゃろうかと、あ、見損のうた。」と云うかも知れませんけれども、おかげを頂いた暁に、生け捕りにしてですたい、私には過去にはこう云うめぐりあった。しかも、【 】ではない。こう云う大きなめぐりがあった。赤裸々に、それをさらけだしてもです。それが見せ物になる。それで、お金儲けが出来るようなです。桂先生なんかそれだった。
何代前から、こう云うふうなめぐりがあった。先祖は山賊じゃった。桂先生の御先祖は、それを平気で出されてもです、先祖の名は、汚れる事はないでしょうが、それは先生自身が徳を受けられ、力を受けられ、おかげを受けられた暁だから、いわば、それがお金儲けされておるようなもんなんです。ね。お互いのめぐりが、私を賄う(まかなう)てくれるような、おかげを頂く為にも、そのお取り払いに、それを生け捕りにする事に、いわば、不動様の御縁日だからと、確固たる不動の信念を頂かしてもろうて、ね。
それを殺すのじゃない、生け捕りにさしてもろうて自分のめぐりを、赤裸々に出してから、めぐりで苦しんでおる人達に、そのめぐりが、貴方を賄うてくれるようになるのですよと云うて、話しを出来れる様な所まで、おかげを頂かねばいけんと云う事。私は、そう感じた。 夜叉のような面を被ってくると、もうそれが恐い。ニコニコとお多福さんの面を被ってくりゃ、すぐよか気になる。ね、夜叉の面、面をとってくりゃ、どっちも同じなのである。私共はね、信心によって、ここの所を体得せねばいけない。
例えば、どうでしょう、勝彦の、私が、その話しを聞きながら、「親先生も親先生、そげんな事じゃったか。」と、私が腹かいたら、もう、おしまいです。「お前達を、そげな取り扱いをしてから、なんちゅうこっちゃろか。」と、私が腹かいたり、心を汚したりしたら、私あたりも信心の無いものと同じ事だとこう思うのです。私はおかげ頂いておるなぁ、神様のお働きに、ね、成程、寂しいけれども有難い。
かっていしは、実る前提なのだ。かっていしと云やぁ、髪に着ける油が出来る。いわば、実る前提なのだ。神様は、手の込んだ事だなぁと云う事。ね、一修行生としての、もちろん取り扱いを受けるのは当り前。ね、なら、ここでさぁ、途端に、若先生になったからと云うてです、調子に乗り過ぎる事があっちゃならない。ね、そこらへんにいつも、その調和を保って行くところの、平生心と云うもの。
お互い、日々、魚捕りの稽古さして頂いておる。魚捕りの名人にならせて頂いておる。けれども、せっかく捕ったその魚がです、自分の中にある汚い物で、汚されては勿体無い話じゃないですか。ね、ですから、ここの所を、私共が絞りに絞り、改まりに改まらせてもろうてです、一日も早よう、おかげを頂くと云う事が頂いておるそのおかげがおかげとして、それを現していく事が出来るのである。
神様も安心してです、例えどんな豪華好みの氏子にでもです、それが豪華ごめんなら、豪華ごめんのおかげを下さって、安心して下さる事の出来るような、おかげを頂かなければならん。どうしてお許しを頂かんだろうかと云わずにです、ね、神様の御神意は、桜の花のような性格であるから、あんたには、神様が、梅の花のようなおかげを下さろうとしておるのだと云う御神意を悟らしてもろうてね。
そこを、辛抱し抜かせて頂く所の信心。その信心を身につけていく、日々の中にもです、いよいよ、神様へ対する所の憧念心を燃やし続け、寂しいような事があるからと云うて、それで、おかげを落とすような事がなく、調子に乗り過ぎるような事が続くからと云うて、いわば、調子に乗り過ぎておかげを落とす事のない、いよいよ確固たる不動の信念。どのような場合でも、平生心でおられるおかげと云うものをです、身に付けていくと云う事を専念しなければならない。
求道すると云う、道を求めると云う、というのはそこではなかろうかと。 昨晩も、勝彦を中心にして、色々お話している中に、私は、古賀先生に申しました。「古賀先生、どんなふう、今朝の御理解の中にも、私、ちょっと言葉を使った、所謂、死活自在と云う言葉を使った。あんたをもう、いつも殺したり生かしたり、私、それを心得ておる。ね、そこでです、ちょっと言やぁ、もう、ぐしゃとして死んでしまう心が、ちょっと言やぁ有難うなったり、嬉しゅうなったりする。ね。
だから今はそれでいいんだと、私は思うって私がついておるから、生かす事も殺す事も私が心得ているから。けれども生かされながら、生かされ殺されさして頂いてるうちにです、自由自在の心の使い方を、今こそ稽古しておく時ぞと、どのような心を傷つけられる様な、真っ暗うなる様な事を云うても、それで死なんですむだけの、貴方に心を鍛えてゆく事ぞと。ね。信心とはもう自由自在。
自分の心をどのような場合でも寂しいけれども、腹が立つけれども、けれども有難いと云うものを身に付けていく時ぞ。もしそれが、身に付かんならばです、ちょっと煽て(おだて)られたり、ちょっと苦しい事、その良い事が続いたりするとです、もう、それにのっておかげを落とさなければならない基を又作る。ね。どっこいと、例えば殺されるような場合でも、それを受け止めれるだけの心の使い方を、今こそ稽古をしておく時ぞ。」と、まぁお話した事で御座いますけどね。
皆さん、そうでしょうが。そこの稽古をしなければ、私椛目通いの、値打ちはないと思う。そしてもう、これに、どんな豪華なおかげをやってもです、どう云う、おかげを渡しても大丈夫と云う、見極めを、神様からつけて頂けれるところまでです、稽古さしてもらう。それが私信心の稽古だと思う。広大なおかげばっかり頂いております。頂いておりますではつまらん。
昨日でしたか、一昨日でしたか、テレビをちょっと見せて頂いたら、ありゃ、なんですかね、なんか、喜劇があってた。そこの一場面だったけれど、あれ、あの、三人娘の、あのトリオで、やっておる漫才があるでしょうが、何とか、かしまし娘かね、その喜劇に出てるんですよ。男と女が反対になってるんですよ、嫁さんが半天着てから「おういお父ちゃん、今帰ったぞ。」「はぁ、お母ちゃんお帰り。お茶沸いてるよ。御飯にする。お酒にする。」って言うてから、御主人が言いよるところなんですよ。ね、
けれどもそこに調和がとれるてんです。ね。私は善導寺に参りましたら一信者の取り扱いしか受けません。「大坪さん大坪さん」です。ですから私そこで大坪さんに成り切ればいいのです。さぁ帰って来た途端に、皆んな待ち構えておる。私が帰るのを「やぁ先生お帰りなさい。」と云うて、表へ皆んなが出て来て下さる。ね。けどそこの所の調和をですたいね、私は乱さんでそれこそ「父ちゃん、今帰ったぞ。」で、いいじゃないですか、ね、私、ここの所を本当身に付けていかなければいけないと思うですよね。おかげ頂かねばいけません。